捨て奸ってなんだ

捨て奸(すてがまり)は、戦国時代に薩摩国の大名島津氏により用いられた戦法の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られている(島津の退き口)。座禅陣とも言われる。

本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、死ぬまで追ってくる敵軍を足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。

関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。

廃線

旅客・貨物の減少の要因としては、1960年代まではバスやトラックの発達が主要因であったが、それ以降は自家用車の普及(モータリゼーション)が主要因となっている。仙北鉄道の場合、営業末期には旅客・貨物ともに最盛期より減少していたが、赤字を出すほどではなかった。しかし車両および施設の更新に多額の費用がかかることから、鉄道を存続させるよりもバスに転換する方が得策という経営的判断による廃止であった。戦前・昭和初期において既にバスとの競合に負け、廃線となっていた軽便鉄道も少なくない。

また沿線人口の減少(過疎化)が利用客の減少を招く場合も多い。近郊部でも国鉄改革に伴う、貨物輸送の大幅な変更(詳しくは1984年ダイヤ改正での貨物列車整理を参照)による車扱貨物の減少で別府鉄道のように廃線に追い込まれた路線もある。

銚子市の由来

銚子の由来はなんだろうか。

元は「銚子口」と呼ばれていた。「銚子」とは、あの小さなつぎ口を持つ酒器の一種である(概観は急須に似る。徳利ではない)。

入り口が狭く、中に入るとより広い空間が拡がる地形がよく似ているため、この地名がついたとされる。「銚子」が行政区画名として町名に使われたのは、1889年(明治22年)4月1日「市制町村制」が施行されてからである。

本当にあの銚子から来ているとは思わなかった。

おやじギャグも通じなくなる。

 

 

中世のステンドグラス

破片の形で残る最も古いステンドグラスは、フランク王国のカール大帝の支配下にあったロルシュ修道院(ドイツヘッセン州)で見つかっている。修道院は764年創建だが、ステンドグラス自体は9世紀のものだと推定されている。

ステンドグラスにはキリスト像が描かれていた。原型を留める最古のステンドグラスは、ドイツ南部バイエルン州に位置するアウクスブルク大聖堂に残る。ダニエルをはじめとする5人の預言者を描いたステンドグラスは12世紀初頭の作品だと考えられている。

その後、ステンドグラスはフランスにおいて発展していく。12世紀頃になるとロマネスク美術に続いてゴシック美術が北フランスからおこり、建築技術の向上が見られた。飛梁の発明により天井は高く壁は薄くなり、大きな窓が可能になった。

ゴシック様式を採用した教会堂の窓には彩色の施されたステンドグラスが使用されるようになり、教会堂は光のあふれる空間となった。

モントリオール

住民の大半がフランス系を中心にしたヨーロッパ人である一方、市の約26%は非白人と世界各地からの移民も多い多民族都市である。モントリオール大都市圏の住民の7割弱が第一言語をフランス語とし、人口数ではパリに次いで世界第2の規模を持つフランス語圏の都市である。フランス文化の薫り高い異国的な雰囲気、美食の町、石造りの住宅街、街中にある数多くの教会、パリのメトロに似たゴムタイヤの地下鉄、石畳のヨーロッパ調の旧市街の街並みなどから観光客向けに「北米のパリ」と宣伝される。

Joie de vivre(生きる喜び)を信条とするなど、生活や暮らしにもラテン的精神文化を色濃く反映している都会である。

ロベルト・ジェラール

本名はルベルド・ジュアン・レネ・ジェラルト・オッテンヴェルデー(Robert Juan Rene Gerhard Ottenwaelder)といい、アルザス出身の母親と、ドイツ系スイス人の父親との間に生まれた(Roberto というスペイン語の綴りは、亡命後に採用したものである)。生まれる前から国際的で多言語になじむ環境にあったといえるが、ジェラールは生まれも育ちもカタルーニャであった。

ピアノをグラナドスに、作曲を、スペイン国民楽派の父というべきフェリペ・ペドレルに師事。したがってジェラールは、アルベニス、グラナドス、ファリャの弟弟子ということになる。1922年にペドレルが没すると、ジェラールはファリャに弟子入りしようとして果たせず、パリに行ってシャルル・ケクランに入門しようとも検討したが、結局アルノルト・シェーンベルクに指導を打診した。するとシェーンベルクは、数少ない初期作品を手がかりに、唯一のスペイン人の弟子をとることにしてくれた。

ジョン・シンガー・サージェント

サージェントは1856年、アメリカ人医師の子としてイタリアのフィレンツェに生まれ、少年時代をイタリアで過ごしている。12歳の1868年から1869年にかけて、ローマでドイツ系アメリカ人のカール・ヴェルシュという画家のアトリエに通い、絵を学んだ。1870年には故郷のフィレンツェに戻り、アカデミア・デッレ・ベッレ・アルティに通っている。1874年、18歳の時にはパリに出て、カロリュス=デュランに師事するとともに、官立美術学校にも通っている。こうしてアカデミックな美術教育を受けた彼は1877年からパリのサロン(官展)に出品するようになる。